紀州神社考 -王子権現との関連において-(著:倉木常夫)

承前1承前2で取り上げた、紀州神社についての考察。

東京都北区立郷土資料館調査報告第12号。北区文化財調査員の倉木常夫さんの研究。30ページにも満たない小冊子だけれども、地元の歴史に興味がある人間にとってはなかなか面白い。


さて、著者は新編武蔵風土記稿に登場する紀州神社の記載に対し、以下の8点について興味をおぼえ考察している。


1.豊島村紀州神社の項で、「社伝を閲するに」という表現を使っていること。
2.格が上と考えられ、しかも王子村にある王子権現の勧請に触れていること。
3.豊島村の産土神がすぐそばであるといっても王子村にあったと言うこと。
4.紀州明神を豊島村に遷座させていること。さらにその後2回も遷座しているということ。
5.紀州という国名をもった神社の存在そのものが少ない例であるし、国名と「明神」を結びつけ祀っているということ。
6.紀州明神は紀州の五十太祁のカミを勧請したものであるが、その祭神は素盞嗚尊、五十猛命大屋津姫命、抓津姫神の4柱であること。3回の遷座について触れていること。
7.別当寺に関する記事がなく、村民持ちであるかどうかについても明らかにされていない。しかし、神主として鈴木氏がいること更にその由緒などには触れていること。
8.カミを紀州から遷座して新たな神社を創建した事に豊島氏が関わっていると言うこと、また、豊島氏とともに遷座に関係したとされる鈴木氏が熊野から一緒に来て神官をしていると言うこと。


以下、順を追って読み進めてみる。


1.豊島村紀州神社の項で、「社伝を閲するに」という表現を使っていること。
新編武蔵風土記稿は僕も手元に置いてペラペラめくって見ているのだけど、これは気に留めなかった。文中「閲」が使われている個所は限られており、大部分では「云」が使われている。
『人の言葉をそのままうつすときに用いる』「云」と、『一つ一つ数えあらためる』『えらぶ』『文中の誤りを調べただす』「閲」との意味の違いは明らかで、新編武蔵風土記稿の筆者や編者の意志や意図が感じられる、という。


2.格が上と考えられ、しかも王子村にある王子権現の勧請に触れていること。
倉木氏は、「この両社が直接的には何も関係のない神社である」のに、新編武蔵風土記稿にはなぜか「されど元亨年中、王子権現を勧請せしと云うは誤なり。彼社は其以前に造立ありしことは、考証あり。」と、わざわざ王子権現について言及している事に疑問を呈している。また著者によると、南向茶話・同追考に「王子は右の熊野と同社にして、後に別当神職と相別れ候哉」、更に埋木の花には「紀州大明神とあれども、元来は王子の権現と同社を訳あって別として」と書かれているそうで、新編武蔵風土記稿の記述と差異があり、新編武蔵風土記稿には何か訳があって書けないことが隠されているのではないかと睨んでいる。
南向茶話・埋木の花の記述を合わせて考えれば、五十太祁(=伊太祁曽)の神々を紀州より勧請し紀州明神と称し、若一王子と同所に祭った、と言うことではないだろうか?


3.豊島村の産土神がすぐそばであるといっても王子村にあったと言うこと。
確かに豊島村の産土神が隣村にあったというのは不思議だ。倉木氏によると、豊島村の方が歴史的に古く自然村として成立していって王子を含む広い地域を含んでおり、熊野に似て台地の上に森が広がっていた現王子の地に紀州の神々を勧請し産土にした。その後王子の地が豊島村から独立するような形で分かれていき、豊島村の産土神が王子村にあるような形になってしまったと言う。倉木氏は王子村の成立を江戸時代に入ってからのことと考えており、永禄二年(1559年)に北条氏康がまとめさせた小田原衆所領役帳には王子村の記述がないことから推測をしている。


4.紀州明神を豊島村に遷座させていること。さらにその後2回も遷座しているということ。
王子村から豊島村への遷座以降、豊島村小字宮前、小字馬場へと遷座し、現在の大字中豊島へ移っている。
僕は前のエントリにて荒川の氾濫による遷座ではないかと考えていたのだけど、倉木氏は荒川の氾濫に加え、村外れで不便であったこと、また有力者の家が近くにあったことなどを理由の一つとして挙げている。


5.紀州という国名をもった神社の存在そのものが少ない例であるし、国名と「明神」を結びつけ祀っているということ。
紀州明神の祭神がいずれも国津神(クニツカミ)であることから、王子権現という神仏習合した神ではない日本古来のカミであるとして、明神という名をつけて祭ったものであろうという。また、紀州という国名をカミの名としていることについては、紀州から来たカミという意識で付けたものであろうとしている。
あるいは、紀州に関連のある政治的な大きな力が働いてこの名称がつけられた可能性も考えられると含みを残しているが、この説については明確にしていない。


6.紀州明神は紀州の五十太祁のカミを勧請したものであるが、その祭神は素盞嗚尊、五十猛命大屋津姫命、抓津姫神の4柱であること。3回の遷座について触れていること。
倉木氏は、紀州明神の祭神は素盞嗚命五十猛命大屋津姫命、抓津姫神の四柱(現在は素盞嗚尊を除く三柱)だが、勧請元である紀州伊太祁曽神社の祭神は大弥毘古命(=五十猛命)であるから、勧請するときに親神である素盞嗚命と妹神である大屋津姫命、抓津姫神も一緒に勧請したことになる。この事は神々の関係を知っている人が勧請に関わったと言うことである、と指摘している。


だけど、村への産土神の勧請という大事業に関わるような人であれば、その位のことは当然知っていてもおかしくないのではないだろうか?筆者によれば神職の鈴木氏も一緒に熊野から移ってきたというから尚更だ。


この項続く。


イチ