紀州神社・補筆(北区豊島七丁目)

紀州神社について、ちょっと補筆。


新編武蔵風土記稿(新編武蔵國風土記稿とも)の豊嶋村の項には下記のようにある。原文はセンテンスごとに"。"で区切られているが、読みやすいように句読点を適宜追加変更してある。

紀州明神社 村の鎮守なり。祭神は素盞嗚尊、五十猛命大屋津姫命、抓津姫神の四神なり。社伝を閲るに、昔元亨年中(1321〜1324年)、豊島氏紀伊国熊野権現を写して王子村に一社を造立し、若一王子と崇め、また同国名草郡五十太祁の神社をも、同村に勧請して、紀州明神と称す。是当社なり。其後天正年中(1573〜1592年)、当村と王子村争論のことありしに、己が村の産神を、王子村に置きしも本意ならずとて、村内小名宮ノ前へ引移せしが、又小名馬場へ移し、後今の社地へ移せり。その旧蹟は、今も除地となりてありと云。されど元亨年中、王子権現を勧請せしと云うは誤なり。彼社は其以前に造立ありしことは、考証あり。
飛鳥社。

「されど元亨年中、王子権現を勧請せしと云うは誤なり。彼社は其以前に造立ありしことは、考証あり。」とあるが、王子神社wikipediaによると王子神社は創建年不明で、元亨二年に豊島氏が社殿を再興したと言うことになっている。その後天正年間に王子村より神社を移したのが宮ノ前、その後馬場へ移し、更に移されたとある。資料がないので正確には解らないのだけれど、宮ノ前は今の豊島五丁目、馬場は今の豊島八丁目だと思う。
今の社地へ移せりとあるのが現在の社殿の位置であるかは解らないが、狭い村内で点々と移動せざるを得なかったのは荒川の水害のためだろうか。村内を流れていた荒川は、その後明治の荒川放水路の完成によって隅田川と名前を変えたが、今も神社のそばを滔々と流れている。


新編武蔵風土記稿には、先日訪れた時に確認した水神社、金毘羅神社三峯神社についての記載はない。逆に、新編武蔵風土記稿には祭神に素盞嗚尊の名が見えるが、神社庁によると祭神は五十猛命大屋津姫命、抓津姫神の三神とある。また、末社であろう飛鳥社は現地では確認できなかった。飛鳥社もやはり、紀州熊野に縁深い神社である。


イチ