司馬遼太郎の日本史探訪(著:司馬遼太郎)
- 作者: 司馬遼太郎
- 出版社/メーカー: 角川書店
- 発売日: 1999/06/01
- メディア: 文庫
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取り上げられている内容は目次に記載されている項目だけ列挙しても、源義経、楠正成、斎藤道三、織田信長、関ヶ原の戦い、朱印船、シーボルト、緒方洪庵、新撰組、坂本竜馬、幕末遣欧使節、大村益次郎、新世界"蝦夷地開拓使"と大変多岐にわたっており、各回ごとに海音寺潮五郎や松本清張、緒方洪庵の孫の緒方富雄など豪華なゲストを呼んで対談形式で進めていることもある。
個人的に読み進めた当初から気になってしょうがなかったのが、取り上げられた人物を評価するあまり「世界史上最初の」とか、「日本で最初の」という表現を多用すること。そう言われるとつい反証したくなってしまうのだが、義経を「騎兵を騎兵として使った、世界史上、最初の人物といっていい」というのは少々言い過ぎなんじゃないかな。日本史において常識にとらわれない、型破りな才能であったことは間違いないだろうけれど。
以下、メモ。
以前から、江戸幕府が鎖国と呼ばれる幕府による管理外交・貿易を敷いていく過程はなかなか面白いなと思っていたのだけれど、「朱印船」の回では鎖国体制の目的を、貿易によって豊かになった西国大名が直接江戸湾に攻め上がってくるのを防ぐためだった、と述べている。鎖国については様々な説があるようだけれど、これは解り易いけれどなかなか納得のできる説だと思う。
朱印船が航行したのは、豊臣秀吉が始めてから寛永年間に事実上廃止されるまでの40年間ほど。再び数百人を乗せて外洋を航行できるような大船を海外へ送り出すようになるまで、その後200年間近く待たなければならなかった。もしも江戸時代初期に鎖国をされずその後も積極的な外交・貿易を行っていたら、その後の日本の歴史はどうなっただろうと思うことがあるけれど、江戸時代の日本がまるでガラパゴス諸島のように独自の文化を発達させたのは、鎖国をして一般の人々へ情報を与えなかったからとも言えるわけで、そうした江戸の文化を尊敬する自分としてはこれで良かったのだと思う事にしたい。
緒方洪庵についてはよく知らず、福沢諭吉の『福翁自伝』で読んだくらいの知識しかなかったのだけれど、晩年には将軍の侍医になっていたんですね。
福翁自伝には当時の適塾の様子が多く書かれており、自由といえば聞こえはいいけれどとにかく乱暴・粗雑で、夏には皆裸でブラブラしたり近所で漢学を学ぶ学生たちと喧嘩をしたりと大変なのですが、一方たった一揃えの蘭日辞書『ズーフハルマ』に何十人も群がって蝋燭の明かりを頼りに書き写して使用したり、諭吉など寝る間を惜しんで本を読み勉学に励んでいたため塾で過ごした数年間は一度も枕を使って寝たことがないと述懐していたりしている。知に飢え時代に急き立てられるように学び、激動の時代を駆け抜けた若者たちの話を読むと、自分は今まで何かにここまで打ち込んだことがあるだろうかと思ってしまう。
幕末遣欧使節についてはちゃんと本を読んで知っておきたいと思っているのだけれど、まだその機会に恵まれていない。(その前に積読本を無くさなきゃね)明治期の話だったかもしれないけれど、誰だったかがワイマールかどこかでフランツ・リストの演奏を聴き日本に連れて帰ろうとしたが、随行員から「あの方は独逸國の國寶のやうな人物」とかなんとか言われて諦めたというエピソードを聞いたことがある。
さて、ここで取り上げられている遣欧使節では将軍徳川慶喜の名代として、弟の徳川昭武がパリ万博へ招かれている。ナポレオン三世の君臨する花のパリを一行が大小を腰にぶら下げ丁髷姿で歩く姿は、想像するとまるで漫画のように思えるのだが、興味深いことにこの一向にのちの日本資本主義の父とも呼ばれる渋沢栄一が含まれているのだ。一介の農民にすぎなかった渋沢が一橋慶喜に認められ取り立てられ、慶喜が将軍となった後は幕臣となり、その後国を代表してパリへ赴く…というのは、当時としては破格の立身だったのだろうけれど、幕府ものこの頃になると意外とこんな家柄に囚われない実力主義による人事が行われることが目につくように思える。勝海舟なども家柄としてはかなり低いところから登り詰めているわけだし、なりふり構っていられなかった、ということだろうか。
(イチ)