ダナエの愛 日本初演

今日は二人で、リヒャルト・シュトラウスの『ダナエの愛』を聴きに新宿文化センターへ。僕の一番好きな作曲家のオペラの日本初演とあっては、居ても立ってもいられずハギを(半ば強引に)連れて出掛けてきました。
足元に雪の残る中出掛けてよかった!

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15曲あるシュトラウスのオペラの中の最後から2番目に作曲されたこの作品はその生い立ちからして不幸で、作曲家がホフマンスタールの描いた構想に興味を持ったときには既に作家は亡く、続くパートナーであったシュテファン・ツヴァイクナチスから逃れ南米で亡命中。結局台本の執筆はヨーゼフ・グレゴールが担当しました。
1944年のザルツブルク音楽祭での初演が企画され、リハーサルが続けられたものの、時は大戦末期。戦局の悪化から音楽祭は中止となり、ダナエの愛の公演も取りやめになったのですが、シュトラウスの友人でもある指揮者のクレメンス・クラウスらの尽力によって、非公開なドレスリハーサルが行われました。
当時80歳の老作曲家は、上演の後に関係者達に礼を述べ、深い感慨を込めてこう言ったといいます。 「みなさん、できればもっとよい世界でお会いしましょう」

戦後、各地のオペラハウスから初演の権利を与えてほしいという申し出があったものの、シュトラウスの脳裏には1944年のドレスリハーサルの素晴らしい思い出が忘れられなかったらしく、同じ劇場、同じ指揮者、同じ演出家、同じオーケストラによる上演を夢見てこれらの誘いを全て断り続けました。
結局、シュトラウスの希望通り同じ劇場、同じ指揮者、同じ演出家、同じオーケストラによる初演が行われたのは、ドレスリハーサルから実に8年後の1952年のザルツブルク音楽祭シュトラウスが85年の生涯を閉じた3年後のことでした。

初演後の2,3年はドイツ語圏各地で頻繁に舞台に上がったものの、その後は急激に上演頻度が低下し、ここ数年のリヴァイバルまでの数十年間ほぼ忘れられた作品となっていました。その理由は冗長なところのある音楽と、性格描写に欠ける台本にあるとよく言われていますが、今回初めて生でこの作品を聴きながら、もしも原案者であるホフマンスタールが台本を書いていたら・・・と思わずにはいられませんでした。
音楽はさすがにシュトラウス、黄金の雨のシーンも第3幕のユピテルとダナエとの対話のシーンも素晴らしかった!

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帰りは久々のデートをして、夕食は二人とも大好きな温野菜へ。このためにわざわざ王子まで足を運びました(笑)

イチ