江戸の旅人 大名から逃亡者まで30人の旅(著:高橋千劔破)

江戸の旅人 大名から逃亡者まで30人の旅 (集英社文庫)

江戸の旅人 大名から逃亡者まで30人の旅 (集英社文庫)

数年前に詠んだ本を再読。著者は歴史読本の編集長を務めた人物で、文庫本の性格から広く浅く取り上げられているけれど、どれもよくまとめられていてとても面白い。


取り上げられている人物は、松尾芭蕉小林一茶といった、僕らが江戸の旅人と言われてまず最初に想像するであろう人々をはじめ、与謝蕪村十返舎一九司馬江漢、木喰、伊能忠敬和宮シーボルトシュリーマン吉田松陰清河八郎坂本竜馬といった有名人から、村尾嘉陵という江戸時代後期の江戸勤めの武士のたまの休暇を利用した日帰りの旅や、甲斐国犬目の兵助という一揆の主導者の逃亡の旅といった、歴史的には無名ながら興味深い人々が次から次に出てきて面白い。


江戸時代も後期になると農民の中にも富裕層にインテリたちが出て来、平和な時代には地方文化人として書や本を成したり絵や歌を残したりするのだけど、一度動乱が起こるとなると村民に祭り上げられるか自ら頭角を現し出すことになる。この犬目の兵助なども山村の農民ながら村役人を務めるほどの有識者の一人で、村民たちから一揆の主導者に祭り上げられたのだが、決起の翌日には早くも逃亡してしまう。ここまでならそう珍しい話でも無いのかもしれない。けれど彼の凄いところは、その逃亡中に日記を書き続けそれが現存しているところだ。当初は巡礼者に身をやつして木賃宿なんかに泊まっていたようだが、逃亡資金が底をつき始めると村々でそろばんを教えながら、甲斐の国から秩父、榛名、善光寺へ参った後は、北陸道を通って金沢、若狭、丹後から西国霊場の巡礼を続け、さらには四国八十八か所巡りまで行っている。更に彼は安芸へ渡るのだけれど、この頃から故郷へ残してきた妻子が夢に現れてきたそうだ。彼の逃亡日記は伊勢神宮を参拝したところで終わっているそうだが、その後江戸に入り木更津で寺小屋を営んで妻子を呼び、晩年故郷の犬目に戻って暮したそうだ。
幸い彼の妻子は無事だったが、一揆の参加者一千百余人は皆処刑されている。彼の旅は、逃亡と同時に仲間への鎮魂の旅だったのだろうか。


また、興味深かったのが出雲の国の貧しい農村の娘5人組の西国巡礼の旅。とめという病弱な28歳の娘が、病の平復のお礼参りということで友人4人を誘って西国巡礼に出かけるのだ。当然路銀などもなくまともな宿には泊まることなどとてもできないのだが、江戸後期の旅人を取り巻く環境は当時の世界中を見ても比類ないものだと改めて思わされる。かつてシーボルトが「あの政策的な制度ほど、日本での旅行をしやすくするのに役立っているものはおそらくあるまい」と言った通りで、地方勢力の力をそぐために考案された参勤交代という制度が街道を整備し道々の治安を良くし、国内の流通を活性化したと同時に彼らのような貧しい者にも旅をする機会を与えたのだ。当時世界のどこに、金を持たない若い女性5人組がぶらりと長旅に出られた国があっただろうか。
また、徒歩での旅に必須な草鞋なども日に数足は履き替えなくてはならないのだけれど、余裕のある旅人はまだ履ける草鞋をお地蔵さんに供えておく。新しい草鞋を買う余裕のない者は供えてある草鞋を、手を合せお地蔵さんと先を行った見知らぬ旅人に感謝しながら履いて、また旅を続ける。巡礼路には善根宿と呼ばれる家々があり、乞われれば無償で納屋なり馬小屋なりを貸し、何かしらの食事を与え、さらには多少の路銀などの施しも惜しまなかったという。
とめたち5人組はそうした人たちの善意にすがりながら旅を続けたのだろう。一月後の4月初めには伊勢神宮へ参詣したのだが、その数日後伊勢の焼飯村というところで次々に麻疹に倒れてしまう。村民たちの善意で医者が呼ばれ薬も与えられたものの手厚い看護の甲斐なく、5月6日に故郷の出雲から遠く離れた地でとめが死んでしまう。焼飯村の村民たちは村民たちは見ず知らずの旅人のために柩をあつらえ、村内の寺で葬式をあげ戒名までつけてくれ、残る4人が再び旅を続けられるほどに回復するまで逗留させてくれた。4人と紙位牌となったとめが故郷の村に帰ってきたのは、7月も末のことだった。
彼女たちの旅は不幸な結果となってしまい、帰郷後になされた村役人からの詮議によって後世に残ることになったが、恐らくはこうした旅は珍しいことではなかったのではないだろうか。


気軽に読むことができる上にその出典もきちんと明らかにし、読者が興味を持てば原典に当たることができるようになっているのもとても良い。お勧め。


イチ