花園神社(東京都新宿区新宿)


4/26のフリマの帰り、新宿の雑踏を抜けて花園神社へお参り。
ご祭神は倉稲魂命日本武尊・受持神。


これだけ有名な神社であるにもかかわらず、wikipediaや公式サイトによると創建が1590年の徳川家康入府以前としか解っていないというのが意外。
もともとは現在伊勢丹があるあたりにあったそうなのだけど、その地が旗本朝倉氏の下屋敷となったため、寛政年間(1624〜1644年)頃に代地として尾張藩下屋敷の一部であった現在の場所を拝領することになったのだとか。花園神社の花園とは、この尾張藩下屋敷時代に花が咲き乱れる地であったことに由来する。




文政四年(1821年)、村田整ミン(王篇に民)作による唐獅子。保護のためか金網に閉じ込められて窮屈そう。



狭い参道。今はビルに囲まれているけれど、かつては尾張殿の塀に囲まれていたのだろうか。



昭和四十年に建てられた拝殿。



楽殿





威徳稲荷神社とお稲荷さん。仔狐がじゃれついていて可愛らしい。



雷電稲荷神社。
なぜか公式サイトにも記載がないのだけど、昭和三年に新宿四丁目の雷電稲荷神社を合祀したものという。
その後いつしか、新宿高校そばの旧所在地にも雷電稲荷神社が再建され現存しているのだけど、そのあたりの経緯はネットで調べてみてもよく解らない。



「春なれや 名もなき山の 薄かすみ」


明治二十九年建立という芭蕉の句碑。
伊勢から奈良へ向かう際に詠んだ句なのだけど、花園神社との関連はあるのだろうか?
それにしても、変体仮名は大体読めるのだけど漢字を崩されてしまうともうお手上げだなぁ。



いつもお世話になっているGoogle Earthで見られる安政五年(1858年)の古地図には稲荷社として載っており、こうしてみると尾張殿の下屋敷の一部を譲り受けたということがよくわかる。
一緒に書かれている三光院というのは稲荷社に合祀された真義真言宗豊山派愛染院の別院の名で、ここの住職が稲荷社の別当を兼ねていたのだという。三光院は明治期の神仏分離令により分離され、現在の当地には残っていない。



同じ場所の明治二十六年(1892年)の古地図。公式サイトによると

明治に入ると、「村社稲荷神社」が正式名称とされました。これは神名帳を提出した際に、誤って花園の文字を書き漏らし、「稲荷神社」で届出をしてしまったからだそうです。
しかし、江戸時代から当神社は「花園社」と呼ばれており、単に「稲荷神社」といえば総本山である伏見稲荷神社を指すのが一般的で紛らわしいことから、大正5年1月25日、当時の社掌・鳥居成功と氏子総代・坂田寅三郎ら13人が東京府知事に対し社号の改名願を提出しました。この社号改名願は同年2月26日に許可され、「花園稲荷神社」となったのです。


とあるが、上記の地図には花園社と書かれていることから、正式名称とは別に一般にはやはり花園社と呼ばれていたようだ。御獄社とあるのは現在の芸能浅間神社の事じゃないかと思う。
ちなみに上記の雷電稲荷神社も「千安イナリ」の名で見える。



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イチ