司馬遼太郎の日本史探訪(著:司馬遼太郎)メモ追加
- 作者: 司馬遼太郎
- 出版社/メーカー: 角川書店
- 発売日: 1999/06/01
- メディア: 文庫
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ナポレオン三世によりパリ万博に招待された徳川昭武一行は当然日本を代表する使節であったわけだけれども、とても面白い事にこの時"もう一つの日本の使節"がパリ万博を訪れている。薩摩藩家老岩下佐治衛門を代表とする薩摩琉球王国の使節だ。
僕はこの本を読むまではっきりと認識していなかったのだけど、幕末に日本を訪れた外国人は日本の国がどのような政体をとっており、最高権力者が誰で、有力者同士がどのような力関係にあったのか大変解りにくかっただろう。「将軍家にあるのではないかという説と、潜在主権者として京都に天皇という人がいらっしゃるらしい、どっちだろう。あるいは将軍家であったとしても、将軍家がはたして絶対的な主権を持っているのか、相対的なものではないのか。つまり、薩摩とか長州とか加賀の前田の百万石とか、いろいろ巨大なる諸侯がいて、そのうちの単に力の大なるものが将軍家ではないかと」。この状況を分析し、フランスは将軍家を絶対的な主権者に近い存在であるとみなし、イギリスはより相対的なものと考えた。その結果フランスは幕府側に付きイギリスは薩長側に付くことになるのだが、そのフランスの首都パリで開かれた万博に、日本を代表する唯一の施設であるはずの徳川昭武一行の他にもう一組の日本の使節が現れたという事件は、徳川昭武のみならずフランスの外交官たちにも少なからぬショックを与えたことだろう。
時は慶応3年、徳川昭武はその後パリの空の下で幕府の終焉を知ることになる。すでに時局も極まっており、連日新聞紙上を賑わせたというその事件によってフランス側の方針が変わってその後の日本の歴史が変わったとは思えないが、薩摩の人の強かさを示す面白いエピソードだと思う。
ちなみに、昨日書いたフランツ・リストを連れて帰ろうとした人物は明治15年にワイマールを訪れた伊藤博文で、これを思いとどまらせたのは西園寺公望だったらしい。
このエピソードは確か中村紘子のエッセイ『ピアニストという蛮族がいる』で読んだものだったと思う。
(イチ)