自省録(著:マルクス・アウレリウス 訳:神谷美恵子)

古代ローマ五賢帝の最後を飾る、哲人皇マルクス・アウレリウスの著作『自省録』を読了。
著作といってもどうやら公開を意図したものではなさそうで、自分の周囲の人々や神々への感謝の言葉を綴った第1章以外は、その時々に浮かんだ思索や気に留まった言葉を書き留めたノートといった風。それだけに第三者、しかも1800年以上の時を経たローマより遠く離れた極東の島国に住まう僕らにとっては共感することの難しいところもあるし、そもそも写本を繰り返したテキストからの翻訳では意味を理解することのできない個所だってある。
それでも古典としての光を失わないのは、その厳しい自律の精神がいつの世にあっても理想の形の一つとして共感を呼ぶからなのだろう。
また、諦観に満ちた言葉とともにマルクス・アウレリウスの貴族的な精神を垣間見ることができて興味深い。


それにしても、マルクス・アウレリウスのあまりに自分に厳しいその態度には、時には痛々しさまで感じられる。

書物はあきらめよ。これにふけるな。君にはゆるされないことなのだ。

君はもう君の覚書や古代ローマギリシア人の言行録や晩年のために取っておいた書物の抄録などを読む機会はないだろう。だから終局の目的に向かっていそげ。

「読書は君に許されていない。」しかし横柄な振舞を抑えることはできる。快楽や苦痛を超越することはできる。つまらぬ名誉欲を超越することはできる。粗野な人びとや恩知らずの人びとに腹を立てぬこと、それのみか彼らの面倒まで見てやることはできる。

繁栄を極めた大帝国の歪と綻びが随所に現れ始め、度重なる蛮族の侵入や反乱のため皇帝といえどローマで安眠することを許されず兵を率いて東奔西走を余儀なくされたマルクス・アウレリウス。幼少のころから書物を愛し哲学を愛した一人の人間の言葉として読めば、これは悲劇と言っても良いんじゃないだろうか。


さて、『自省録』には「指導理性(ト・ヘーゲモニコン)」という言葉が頻出する。僕はこれをやはり文中に頻出する『ダイモーン』に近い意味と捉えたのだけれど、これが正しいかどうかは分からない。その指導理性とは神的なものが人間の心に植え付けた宇宙を支配する理性の一部だそうで、これをもって人間をほかの動物と区別されるらしい。ちょっと調べたところによるとストア派の思想では魂を五感と言語・生殖・思考の8つの部分からなるとし、これらを統合・統轄するものとして「指導理性」があると考えているのだそうだ。ある意味では「良心」に近いのかもしれないし、またある意味では草薙素子の言う「ゴースト」にも近いのかもしれない(笑)
そしてマルクス・アウレリウスは、この指導理性を健全に保ち、かつ指導理性に従って生きよと自らに説く。「外的な原因によって生ずることにたいしては動ぜぬこと」と書いているが、指導理性は他人の言動や外的な出来事によって損なわれるようなたぐいのものではなく、損なわれるのだとしたらそれはその出来事によって引き起こされた自分の心の動きによるものらしい。
彼はまた「蜂巣にとって有益でないことは蜜蜂にとっても有益ではない」と書いているが、これは宇宙にとって有害でないことは個人にとっても有害ではない、という事の比喩だ。裏返せば個人の不幸は全体にとっての不幸なのだが、この場合の不幸は「○○ちゃんが悪口言うー(>_<,」とか言うことではない。マルクス・アウレリウスの言う不幸とは指導理性が損なわれることであり、「物事自体は我々の魂にいささかも直接に触れることはできない」からだ。個人の指導理性が損なわれるということは、その指導理性が一部を占めている宇宙の理性全体の不幸に繋がる、という事らしい。
そして、個々人の指導理性が宇宙(=自然)を支配する理性の一部なのだとしたら、自らの指導理性の内なる声に従って生きることはこの自然に従ってあるべき姿を生きることに他ならない。


まあ、こんな解ったような解らないような事だけでは無しに、もっと普段の生活に直結する、明日から使えるかもしれない言葉も多く書かれている。

明けがたに起きにくいときには、つぎの思いを念頭に用意しておくがよい。「人間のつとめを果たすために私は起きるのだ。」自分がそのために生まれ、そのためにこの世にきた役目をしに行くのを、まだぶつぶついっているのか。それとも自分という人間は夜具の中にもぐりこんで身を温めているために創られたのか。

もっともよい復讐の方法は自分まで同じような行為をしないことだ。

君の肉体がこの人生にへこたれないのに、魂のほうが先にへこたれるとは恥ずかしいことだ。

何よりもまず、いらいらするな。なぜならすべては宇宙の自然に従っているのだ。そしてまもなく君は何物でもなくなり、どこにもいなくなる。

人類はお互い同士のために創られた。ゆえに彼らを教えるか、さもなくば耐え忍べ。

すべての出来事は、君が生まれつきこれに耐えられるように起こるか、もしくは生まれつき耐えられぬように起こるか、そのいずれかである。ゆえに、もし君が生まれつき耐えられるようなことが起こったら、ぶつぶついうな。君の生まれついているとおりこれを耐えよ。しかしもし君が生まれつき耐えられぬようなことが起こったら、やはりぶつぶついうな。その事柄は君を消耗しつくした上で自分も消滅するであろうから。

善い人間の在り方如何について論ずるのはもういい加減で切り上げて善い人間になったらどうだ。

君に関して、誠実でないとか、善い人間でないとか、真実にもとらずにいえる権利を何人にも与えてはならない。君についてそんな考を持つ者は、誰でも嘘つきにしてやるがいい。君の考え一つでどうにでもなることだ。


イチ